私の母校 深読みコーナー

【校章にまつわるお話し】


 「校章」は昭和 23 年4月に公募されました。応募作品が教務室前の廊下に展示され美術の秋山忠勝教諭が中心の選考委員会により竹内功(全2)さんの作品が入選となりました。

 デザインの意図については、竹内さんは次の ように述べています。片仮名のラを6ヶ配してムラ、同じくカを3つ配してカミと読み、中央に高の字を置いて村上高等学校を示しています。形は全体に六角形で、村上の雪を象り、3ヶのカは同時に三葉の松葉を表わし、若者のまっすぐに伸び行く姿を象徴しています。

 「同窓の訪れ」28 号(昭和 53 年7月 25 日刊)で、竹内さんは「旧制第一高等学校の柏葉章が念頭にあったのであろう」と回顧し、続けて「自主、自治ということに手探りでスタートした。公募することになったのも このような情勢下であったからであろう」と背景にふれています。


 「校旗」は、「校章」決定3年を経て昭和 27 年1月 18 日に「小林百 貨店」に発注しています。その年の2月20日、小林百貨店商事部田村謙二氏が「校旗」「代用旗」を持参して納入。経費の半額に当たる2万 500 円を同窓会から支払ってもらうことに決定しています。  


 「校旗樹立」は、昭和 27 年3月1日 「第4回卒業証書授与式」の式場において挙行された。創立 110 周年を記念して同窓会より平成 22 年10月に新しい校旗を贈呈しました。  ここに文章を入力してください。

※出展:創立120周年 記念誌「新潟県立村上高等学校 2020」

【校歌にまつわるお話し】


「校歌」は明治 41 年1月に制定されました。「我等が歌」と題されたその歌詞は、片仮名、平仮名で交互に表記されています。1番の歌詞から、あるいは題名からも「校歌」としての意図は、当初なかったのかも知れません。

 1番は「センウンイマヤオサマリテ」と日露戦争の終結を折り込んでいます。他は現在の歌詞に類似してますが、当然「歴史的仮名遣い」によっています。

 昭和になって「安逸の夢」の次に「を」が入り、「時ならじ」が「時ならず」と改められています。

 昭和 35 年4月 14 日に常に論議されていた「シベリヤ颪」か「シベリヤ嵐」を「嵐」に決定しているのは、「我等が歌」に従った妥当な指導であったといえます。

 かつて、時代や時局を反映するのが「校歌」の特質でもあったので大正期、昭和期には、「1番」がそれぞれ次のように変えられています。


大正期

1.トヨサカノボルアサヒコノ 

  ヒカリハイヨヨカガヤキテ

  イマタイショウノオホミヨニ  

  コクウントミニボツコウス


昭和期(戦前)

1. 豊栄昇る朝日子の   

  光はいよいよ輝きて

  昭和の御代の国民は

  東亜盟主の任重し


 その後、歌詞の改訂が国語科の教諭によって行われ「1番」の「昭和の御代の国民は東亜盟主の任重し」は「真理を求めたゆみなき我らが使命果たしなむ」となり、「光はいよいよ」は「光はいよよ」と 変えられていきました。

 

出展:創立120周年 記念誌「新潟県立村上高等学校 2020」

写真:新潟県立村上高等学校 ホームページ